プレタ用

@pure_taa

さまざまな芸術の輪郭について

歌の聴き方というものがあると思う。

同じアルバムを何十回と聴く人。それもなんとなく聴くとか、一生懸命聴くとか、通しで聴くとか、シャッフルで聴くとか、色々ある。

または、同じ曲・アルバムはあまり聴かないとか。

アーティストで聴くとか。ジャンルで聴くとか。流行のものを聴くとか。

 

 

自分は同じアルバムを何回も聴く。1日に1つのアルバムを2周することもしばしばある。一曲気に入ったという場合は、その曲だけ100回単位で聴く。1日、1週間単位でそれだけ聴く。はじめはなんとなく。そして歌の輪郭をうっすらと、何度も何度もなぞりながら徐々に近づいていくようだ。「ではない」と「である」の両方から、彫刻のように、イメージのぼんやりさを少しずつ削り取り、自分なりに、曲の実態に近づいていく。

また、音楽の聴き方が、消極的な態度でも積極的な態度でも、音楽には調味料的な側面があると思う。日常というものに、毎日毎日同じ音楽で味付けしてると、味付けに日常が飲まれるというか、味付けに合わせた日常になっていくこともある、それは良し悪しだなと思う。

 

 

本の感触を確かめて、人に話すのは面白い。

自分は読むものの影響を受けやすくて、読んだ後に影響を受けた自分について考えて、まとめあげる時間が必要だ。それは現実に戻ってくるためにも。

(現実に戻ってくる、というのは、唯一の他者性から、多数の他者性の中に戻っていくことのように感じられる。)

本は、その世界に浸ることも、そこから抜け出すことも、拒まない。

 

 

ゲームも似てる。もっと世界観の余韻が強いけど。

あまり日常生活で聞かない・見ないものを多く見るから、現実との境目は割合はっきりしているように思う。この世界はここまで・・・はー、面白かった、となりやすい(現実に移ってくる時に、現実とゲームのイメージにギャップがあり、途切れやすいのか?子供はどうだろう、現実の解像度が低いとギャップが少なくて、現実と重ね合わせたりしやすかったりするのだろうか。)

自分は、ゲームのことを考える時に、感触とか、仕組みとか、世界観を想起することが多い。

ここらへんのことを考えると、本は、ゲームと比べて、ビジュアルの曖昧さが残って、その曖昧さが時に都合のよさにもなり得るのではないかと感じる(俺TUEEEE系とか、官能小説とかは特にそうなんじゃないか)。

 

 

絵画には、帰ってこれなくなるかもという感覚を感じたことがあまりない。まだ少しおっかなびっくり見ているのだと思う。美術館などに行けば、たいていは枚数を多く見る事になるし。1枚1枚の絵それぞれに(見る者がいるとしても)絶対的な質量として世界があると思うと、総量としての情報量が多くなりすぎてしまう。音楽ならアルバムに50曲くらい入ってて2時間くらい通しで聴く感じ。きっと適度に情報量の取捨選択をするために、解説というものがあるのだと思う。

視覚は、帰り道にもあるから、絵の世界を現実に持ち込めてしまうような気がする。資格に混乱をきたすと、事故にあう確率が高くなるような気がして緊張する。電車のホームから落っこちたり、赤信号を見逃したりしそう。

混乱していても大丈夫な空間・・・例えば、美術館(近く)のカフェなど、にしばらくいて熱を冷ますのもいいかもしれない。

 

 

こう、いろいろぼんやりと考えていると、自分の好きな愛で方というのは、何度もなぞって少しずつ実態に近づくということなのかなぁと思う。

 

 

インスタレーションとか、まだ書いてみたいこともあるから、また書き足すかもしれない。