読書系サイトに載せるのが難しい短編小説の感想を書いていく。
古き良き風習に則り、(特に小説については、)具体的に内容に触れる部分は白抜きで載せる。
歌詞についても載せることにした。(22/6/10)
志賀直哉(ちくま日本文学より)・・・・・・・・・・
『清兵衛と瓢箪』(計9p)
※一部文章が抜けており意味が逆になっていた部分があるため修正しました(22/4/29)
清兵衛・・・・・・
悲しくなってしまった。ふんふんと読み清兵衛を応援したくなったところ、そっ・・・えぇ~・・・!!!あぁ・・・となった。志賀直哉の割と淡々とした、当事者感の若干薄い書き口でショッキングな流れを書いており「ガ~~~~ン」という感じ。
好きなものへの執着と周囲の無理解・無知が本題。清兵衛は瓢箪が大好きで他の子と遊ばずに、学校から帰ればそれが世界とでもいうように瓢箪を磨く(この時点で清兵衛を応援したくなる)。しかし住む町が瓢箪の町であるにも関わらず誰も清兵衛が磨いた瓢箪の存在に気が付かず、唯一気が付く範囲にいる教師と家族はそんなもの下らないと清兵衛の人格を真向否定した上で瓢箪を破壊してしまう(淡々と描かれているがとてもショッキング)。清兵衛はあれだけ手放さなかった瓢箪という存在を部屋の隅に追いやって触れなくなる(辛すぎる)。そして残った瓢箪を勝手に売り払った大金を懐に入れ、教師から数か月分の給料を貰ったような気持ちだとウハウハする小使(胸糞悪すぎる)。高くて15銭の瓢箪を集めていた清兵衛が、豪農が600円(!)でも買うような瓢箪を作っていたこと(さすがに高すぎないか?とは思うが)(金の価値と愛着との関係のある部分とない部分にも思うところがある)。理解者が居ないことの救いのなさ。
書き出しが「今は絵を描いている」から始まるから事の成り行きを多少想像できるワンクッションのやさしさを感じるものの、その後に不穏さがあり、「この世界ならこうなるでしょう」というドライな視線を感じる。
価値に気が付かない周囲の人々の愚かさへの皮肉よりも、好きで執着したものが世に出る前に身近なものに否定され潰されることのもの悲しさが勝った読後感だった。悲しい・・・
そしてそういった情の描写に執着せず、情を呼び起こすのが志賀直哉なのだろうなと思った。淡泊だからと油断ならねぇぜ。
『残月記』小田雅久仁・・・・・・・・・・
『そして月がふりかえる』(計70p)
星新一にアダルトを足してホラーを1.5倍にした感じ。
第七女子会彷徨から女子会を抜いて40代男性一人称視点にした感じ。
こころとからだの体調が悪いときに読んじゃダメ。
メモ。世界は(鏡の向こうのような世界という)ずれを許容できてしまう、たとえ自分にとってかけがえのないものを含んでいたとしても。私的な私はその事態を許容できるのか?という感覚が中盤くらいまで続く。社会的な自己だけがすり替えられ奪われる、それを構成していたのは自己の外の人間関係だ。その物的な証明としての家の鍵は、新しい世界に生きる愛する者の手により切り離されかける。そこまでされても主人公はなかなか発狂しない。かけがえのないものと切り離されてなお私的な私(何か他に良い言い方はないか?)は自立し、鏡写しのような人と入れ替わったであろう自分の身体と思考は異界に適応する可能性を見せる、そのことの違和感としぶとさと残酷さ、静かな異様さ。自分の社会性を、異界に強制的に繋ぎ直される話。ところどころ言い回しが巧みというかおしゃれだなと思った。(22/5/25)
読後感が、小学生向けの怖い噂の本に似ていると思った。特に「この本を読んだ後は、こういうおまじないをしないと呪われる」というような、そうしたとしてもどこか払拭しきらない質の悪さ。月が振り返った原因がよく分からないからだと思う。なのに、「こうすれば回避できた」と言えそうなおまじないの1つの例さえ紹介されず、"そういう事態"に対する無力感を強く感じる。夢中夢のような、着地点や境目が曖昧になる悪夢は、現実と想像の境界線をつまみ揺らしてあやふやにするが、それが読後の現実の自分にも生じる。狂って終わる悪夢と、終わらない悪夢でいうとこれは後者で、終わらなさが気持ち悪い。この話は一種のホラー小説だということなんだと思う。(22/5/26)
『行列のできる方舟』MONO NO AWARE・・・・・・・・・・
MONO NO AWAREはmizから流れてきて知った。
「あ、そこに正直になったものを私は聴けるんだ・・・」みたいなパワーがある。
『孤独になってみたい』
ふと思い出すバッドメモリー
サッと差し出す愛のセオリー
ふと思い出すバッドメモリー
サッと差し出す愛のセオリー
ふと思い出すバッドメモリー
サッと差し出す愛のセオリー
ふと思い出すバッドメモリー
サッと差し出す愛のセオリー
ここが好きだ。行数が多いが誤コピペではない。軽快に繰り返されるメロディーは、BだかCだか分からないが多分サビでなくメロディーだ。
前後の歌詞との関係を見ても、愛のセオリーがサッと差し出されて嬉しいのか嬉しくないのかどっちの解釈なのかは分かり切らないが、ともかく、スポーツのトレーニングにも似た、条件反射の訓練に近いものを感じる("愛"に"セオリー"が必須か、適当かは分からないが、バッドメモリーに対しては6割方カバーできそうな"気がする")。語感もよければ、曲調がちょっとかわいいところも良い。
他の部分では少々愉快な物言いで「あ~人間関係から離れてえ~死にてぇ~」と(言いつつ、時々絆されながら)のたまっていてるが、この部分ではそこから距離を離している印象をメロディーから受ける、その距離に一滴のニヒリスティックみを感じる。そこにはほんのちょっとプラスチックのような安っぽさがあるというか、("愛"という割には)取り回しを意識したちゃっちさがあるというか、あちこちで使われているような日常感がある。
愛にまつわるものとはいえ、その日常感で、料理番組よろしく、こちらにあらかじめ準備しておきました愛(大さじ1)でございます・・・とでもいうようにサッと差し出せるようなセオリーで、(記憶という性質上、とても個人的なものである)バッドメモリーに対抗できるのかどうか、ということであるのだろう。(そうだろうか?まだ考える余地はあるとも思う、)ともあれ、完全オーダーメイドの愛は、各種コストがお高くつくのは確かだ。付き合う人全員に差し出すのは、少なくとも自分には難しい。自分は、「サッと差し出されがちだよなぁ~愛のセオリーはー」というあるある感がツボったんだろうと思う。自分でもあらかじめご用意しておいた愛を差し出していやしないかと思い、痒痛いところをつつかれたような気分に多少ならずともなる。まぁじゃあ現実ではそこのところどうしたらいいんでしょうね大事な人とかいるじゃないそれだけで終わらせていいのかね、とは思うけれども、ここを考えるのはなかなか骨が折れる、でかい問題で脳への負担が大きくすぐに結論は出なかったので次回へ持ち越ししよう。
夜さえ眩しくて
まぶたを閉じてみても
お優しい言葉に高鳴り気づけば
愉快なリズム口ずさむ
という箇所もあることから、「結果的に気分がよくなることもあるけどさぁー、なぁんか全体的な方向としてはそっち方向で満足していいのか分からないんだよねぇ・・・」、という「お前、貰う側にしてはちょっとわがままだな・・・」的なものもうっすらと感じられるところが味わい深い。この人、他人の存在に救われてるかどうかはともかくとして、他人のおかげ(または、他人の所為ともいえるもの)で現世に繋ぎ留められてはいる・・・確かにそれは意思と反しているかもしれないが・・・うむ、人間はわがままなものだ(この、言葉には現れきらない無意識のわがままさがMONO NO AWAREの歌詞に感じる特徴で、何故か(本当に何故か)許容したくなるパワーも同時に感じる)
とか考えるけれども、この曲の主題はここらへんに非ず。孤独の最中に居て生まれる状態への一種の憧れ。線路に身を投げる可能性さえ時には含む、自分のありようというものを、自分ではなく、自分に関わり合ってくる他人の存在自体があらかじめ決めているような不自由さとそこからの解放を願う一連の気持ちの流れが主題なのだと思う。その気持ちの程度については「孤独になりたい」「孤独になる」という意志や決意ではなく、「孤独になってみたい(その状態を体験してみたい)」というものなのも、なんとなくふらつきがちな意志の程度に思える。他人の中にいて己のありようを決めきれず、さりとて己のありようを定めるために孤独になるぞ!という強い意志も持たず、といったところに見える。このあたりの中途半端さに、私もそうだなぁと思わせる絶妙さを感じる。
人と関わることが浸透していると、痛覚が漫然としてくる。やることがあると、人から関わられると、結果としてその騒がしさが自分に麻酔を打つことになる。
孤独を含めて、痛覚は私の(あるがままの)(限界の)輪郭をはっきりとさせるものでもある。私の輪郭の端々が人に絡まり、無理に広げられ伸ばされている風船を、自分自身の重力と引力だけに素直な形となるまでそっとしといて、というような。その他者の影響力は、今は、愛しいと思うあなたからのものでもノーサンキューなのだ、という孤独へのあこがれを感じる。
この主題に対してだけれども、自分は、孤独になってみたい、などとはとても言えない。孤独になったこともまああると言えるし、孤独というものは、自分の頭がおかしくなるほど苦しい事だと感じた事もあるから。いくら、自分ではなく、他人の存在が、自分を生きるように現実に縛り付けていたとしても、「孤独になってみたい」とそう言葉にできるほどに人に囲まれ、なってみたいと思える程度の孤独を想像しているのは、羨ましいことである。(え、この曲嫌いなの?いや別に、すごく面白いと思う。(了))(22/6/10)
『トゥルーマン・ショー』
Netflix視聴。Twitterだと毎日誰かが感想投稿してるね。
自分はホラーだと思いました・・・
トゥルーマン以外が全部作り物で、放映されてるショービジネスでした、どうするトゥルーマン、みたいな話。
- トゥルーマンがジジイになるまで隠し通せると思ったのだろうか
- フィクションの中のリアリティを望む視聴者(それはこの映画を見る私たちでもあるのでメタ的な構造になっている)
- (ラストシーン)ショーの観客の大部分は、真のリアリティはフィクションから逸脱するところ(シナリオという期待を裏切る、"生きている"人物の気持ち)にあった!という興奮を持ったのだろうけど、それってわりと歪んでいるなぁと思った 観てる私たちは「そのシナリオ」に興奮する(そして当人にとっては決死の選択なのだがそれさえも私たちは消費者として消費して次の作品を選ぶわけで、それって残酷よね 少なくとも人間相手にしちゃいけないわよねという教訓)
- トゥルーマン開放派
- ラストシーンの舞台がきれいよね
『10代で知っておきたい「同意」の話』・・・・・・・・・・・
『10代で知っておきたい「同意」の話』が面白い。なんとなく思っていることでも、はっきり言葉にされると勇気づけられる。
・ピザのたとえ話(好きなように選ぼう、選択肢が多いと困ることもある、一種の指標はあってもいい、後で変更してもいい、人に聞いて一緒に決めるのがよいだろう)
・性的なメールも性行為の一種
・性行為の同意は、セックスの最初だけでなく、その間じゅうずっとなければいけない(→「○○したから同意したってことだろ」は通用しないよなぁ、ということ)
・途中で気が変わってもよい(これはとても気が楽になる)
・本来は、自分が心地よいと思える段階で止まってもいい
・プレッシャー。社会的に共有されている物語に対して、何かをしないことが勇気ある行いになる場合もある。
本当に勇気をふるうべきは、話をして、お互いに選択肢を与え合い。したくないことはしなくてもいいのだと示すことです。(略)私たちが自分自身にも他の人たちにもしっかり同意を求めれば、プレッシャーで何かをすることはずっと少なくなるはずです。(p.107)
話をして、お互いに選択肢を与え合い、自分にも他の人にも、したくないことはしなくてもいいのだと示しましょう。(p.108)
(以上は他にも同内容のメモあり)
ヒルデガルド・フォン・ビンケンという作家は、男女は異なるけれども平等なものと見なされるべきだと述べました(p.128 )
作家であり活動家でもあったトニ・モリスンはこんなことを言っていました。
「私は生徒にこう言います。あなたが長年の努力で望み通りの職に就いたのなら、本当の仕事は、あなたが自由になったように、他の人も自由にしてあげることです。あなたがなんらかの力を手に入れたのなら、他の人にもその力を与えりことが、あなたの本当の仕事です。早い者勝ちのイス取りゲームとはちがうのです」(p.143)
『街の上で』・・・・・・・・・・・
映画。下北沢に住んでた頃あったなーと思った。実際には住んでたことはない。脳が下北沢に住んでたという偽の記憶を作り上げていた。
人が沢山出てきて、間も多かったので、人間お腹いっぱいになった。(人間群像劇への耐性があまりない)。青年がいろいろに巻き込まれる話。緩急あまりない。緩い。
山場は・・・どこだろう・・・
『PLAN75』・・・・・・・・・・・
観てよかった。さすが「ある視点」部門。
自分的にはあらすじだけでお腹いっぱいなのであらすじだけ書く。
主人公のミチはホテルの清掃業をしている。歳は70歳以上。仲間は3人いる。労働する高齢者である。3人とは公民館のレコードカラオケをしたりして遊ぶ仲でもあり、75歳以上が安楽死を選択できる制度PLAN75について話したりもする。
PLAN75には、優美な施設で家族に見守られながら亡くなるプラン、合同葬プランもある。基本は両方無料。10万円がもらえる(安い、と思うのだが、現実的でもある、これも伏線だったのだ)
マリアは、フィリピンから来日し高齢者施設で働いていたが、故郷の娘の病気が発覚。手術代を稼ぐために、高額なバイトを紹介される。知人から貰い受けた、子供用シート付きの自転車で通う先は、政府の下請けで、遺体から金品を回収し、遺体そのものもリサイクルしている業者だった。
若い職員のヒロムは炊き出しで、身寄りない叔父を発見する。叔父は三等身以内だから担当できないが、個人的に自宅へ向かうなど、ささやかな関わりを復活させる。PLAN75の業者に仕事の連絡中、たまたま見つけた業者の業務が遺体回収とそのリサイクルではないかと疑う。PLAN75を選択した叔父の、施設への送迎を行ったが、叔父の事が気に掛かり引き返す。亡くなったばかりの叔父を見つけ、たまたま通りかかったマリアの協力のもと、どうにか遺体を連れ帰り、(せめてもと)荼毘に伏そうとするが、火葬場の空きが今日限りだからと急ぐ中、速度超過で見咎められた警察に叔父も発見される。乱れる天気は雪となり、車のワイパーは雪解け露を、一斉にきれいに取り去るをことを機械的に繰り返す。
安楽死施設では、死に損なったミチを視認している。
制度は施行後3年経っていて、色んな事情で申し込みがある。健康チェック施設に流れるCMでは、死に時を選べるから満足です、と笑顔の老女が明るいBGMを背に話している。ミチが行くことになる炊き出しでも、PLAN75の広報は行われている。
ミチは、まだ働くつもりでいたが、(おそらく)仲間が仕事中に亡くなった事から仲間全員解雇される。また、ミチは同時に(事情は不明だが)アパートの管理者の都合で退去を迫られる。仕事探しは高齢ということで断られ、無職では住む場所は見つからず生活保護はどうかと提案される。住む場所と金銭に困ったミチは昔の仕事仲間にも連絡をするがそれでも仕事を得られず、PLAN75を選択する。彼女が安楽死施設に行く前に食べたものは特上寿司の出前だ。
この間に、馴染の友人の老女を孤独死で亡くし、第一発見者となっている。
PLAN75を選択すると、コールセンターの人間が細やかなサポートをしてくれる。コールセンター業務の瑶子は、業務規定を無視してミチに会う。業務規程として、「利用者と、会ってはいけない」。実際、ミチと会うことがなければ瑶子のダメージは少なかった、あるいは生まれなかっただろう(公式HPによれば、「制度に疑問を持ち始める」。どうだろう、これは・・・彼女は、疑問ではなく、只中に投げ入れられた者の困惑と拒否感、ストレスがないまぜになった視線をこちらに向けていたと思う。)
安楽死施設でガスマスクを着けたミチは機器の故障により生き延びる。夕日を見ながら、「りんごの木の下で」と歌うミチの背、そしてスタッフロール。
『南極料理人』・・・・・・・・・・・
これも観てよかった。ほっこり、少しコミカルな邦画。場所を視認すると自分の行動範囲が広がる感じがするので、こういう極端な環境の映画をいろいろ観るのもいいかもしれない。
観たのは春だったが、夏に観ると涼し気でいいんじゃないか。