今日こんなツイートを見た。
京極夏彦”妖怪がキャラクター化したのではありません。キャラクター化したものを妖怪と呼ぶわけですね。”
— 科学に佇む一行読書心 (@endBooks) 2018年1月10日
📜 https://t.co/CtPq2zwetY
👹『怪異を語る 伝承と創作のあいだで』
京極夏彦の文章の引用を引用している。
この本は読んでいない。こういう場合、そのまま話をし続けるとネットの誰かから怒られるのがここのところの世の常だ。
まぁでも進める、思いついた事は少しだけだし。
体験について「何か」が「あのあたり」にある、と気に留めるのは創作の原点だと思える。
田舎の田園風景の写真を撮る時に、電柱のシルエットを生かしがちなこと。絵を描くときに、ある個所を何らかの手法で強調すること。歌詞をつける時に、ある瞬間の感情を思い出すこと。人と接した時や新しい体験をした時に得た、初めての感覚に言葉を与えること。
そういう時々を思い返すと、「あのあたりに何かがある」、そういうアタリをつけて形を与えている人々がいるのではないかと思える。
そして、その行為こそが思考というもののような気がする。世界の輪郭や、実態や質感を感覚として得て、新しい何かとして出力する人々のこと。
「あのあたり」「何か」というその、引っかかり、不和、心地よさ、激しさ、その他もろもろの、発見をしたレンズ、つまり人間、が世界に存在しているだろうと思えること。
特にネットで音楽を探すと思う。創作におけるインディーズな活動というのは星の数ほどあり、そこには自分に即せるかたちのリアリティがどこかにあるという確信がある。これは音楽に限った話ではない。新しく、馴染みのよい世界への視線が存在するだろうと思えることは希望に似ている。
今日はそれだけなんですけれども。そういう人が多分いるなって思いました。そう思えるのは、私にはとても嬉しい事です。