プレタ用

@pure_taa

引きだされたい

良いラップを聴いていると、頭の中が言葉だけになる瞬間がくる。そういうとき、言葉の背景に、その言葉に関わる私の記憶の全てが瞬時に再生されるような感じがする。あらゆる時間の記憶が、多重撮影されたような色彩で、言葉映写されては新しい瞬間に押し出され、焼かれて2度と戻らないフィルムのように流れていく。聴くたびに、何度でも、忘れながら、思い出しながら。

 

 

それに似た感覚を引き出す体験が好きだな、と思った。私は忘れていなかった、私には忘れていないものがある、と思えるような体験が。無意識に過ごしていた時間が、存在した過去として私の身の中に立ち上がってくるようなもの。その記憶は楽しい記憶だけではないし、どうしてそれを覚えているのか分からないようなものも多い。けれども、言葉の中に私を再生し続ける間は、得も言われぬ安心感がある。それはまるで、「私は居ます」とでもいうような感覚だ。

 

 

 

MAKKENZの『ワニカミ』を聴いてそう思った。今itunesの再生回数を見たら99回になっていた。車に積みっぱなしのipodでも何十回か聴いているので、多分もっと聴いていると思う。

ラップを聴くことに限らず、絵を描くこともそうだなと思った。体験を思い出す鍵を自己生産しているようだ。不思議だと思う。鍵穴を手でまさぐって、その手触りを推理して鍵を作り出すようだ。鍵で開けてどうしたい、とかは特にない。ただ、開いたな、と思えた瞬間には、手元には何かが残っている。それはどこかから見ると、面白いものであることが多い。

 

 

その印象を生みだす根幹は言葉なんだけども。言葉といえば、本は好きだけど、どうしてもゲシュタルトの処理に1割くらい意識を持っていかれる感じがする。気を抜くと、なぜ人は線を読み場面を想像できるのかとかが気になってきてしまう。自分は視界に存在の説得力を感じやすいみたいなので、音声の方が集中できるのかもしれないと思う。だからか、好きなラップはすごく好きだな。

 

 

私は、私が引き出される体験を好むなぁと思った。もの、場所、人など。書いてる間にそれだけ分かれば今回は充分でした。今日はここまで。

 

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反応する私について。

;引き出される、というのは主体の意思が薄弱に見える。安易だけど今思いついた例えとしては、「美術館に行く」ということを「引き出されに行く」ようなものだと思う。そこには選択がある。趣味だからね。生活や仕事には「何に引き出されるか」選択肢がない場合があり、それが課題だ。否応なく引き出されてしまう。付け焼刃が役に立たず困ることが多い。

;;他者ありきの私みたいなことはずっと考えている。私は生きている筒なのだと思う。

;;;良く引き出されたい。そういうひとをずっと探している気がする。

;;;;こういう確かな感覚を誰に賛同されなくても(あるいはされても)保ち続けられる状態でいたい。