プレタ用

@pure_taa

飼っていた三毛猫のはなし

先日、猫が死んだ。私が学生時代に拾ってきた猫で、15年くらい生きた。名前は、しばじろうという。雌猫だ。名前が長いのでしいと呼ぶ。

 

 

ずっと一緒にいた訳じゃなかった。しいが子猫の時、うちには老猫がいた。しいが元気すぎ、老猫が疲れた様子を見せたため、人のうちに預けた。そうこうしているうちに、私は学生寮に入るため、数年間、実家を離れた。

 

 

しいはその間、複数の家を転々としていた。どの家でも非常に可愛がられていたようだ。ありがたい。私が実家に戻ってきたとき、しいは10歳ほどだったが、えらく太っていた。この時期のしいを知っている人がいたら、先日の猫は同じ猫なのかと問いただすところであろう。確か5キロはゆうに超えていたと思う。

 

 

しいは変な猫だった。家に人が来ればまず寄っていって足元に寝転ぶ。初対面であろうと、膝に乗る。客人にお茶を用意する間、間を持たせるのに非常に役に立つ猫だった。

 

 

寝室を解放していた時、敷居をまたいで部屋に入るときにはかならず「ナーオ」と鳴いた。深夜1時だろうが3時だろうが明け方5時だろうが鳴いた。不眠症になりかけたため寝室を出禁にした。

 

 

13歳を過ぎたあたりから、よくゲロを吐くようになった。今まで飼っていた猫はどれもゲロを吐くが、しいはちょっと回数が多かった。胃腸への負担があったのかもしれない。

 

 

 

14歳を過ぎたあたりから、急に活発になり、机の上や台所の上へ上がるようになった。同時期に盗み食いもするようになった。ボケたのかもしれないと思っているが、真相は分からない。思い切りがよくなったのかもしれない。

ものすごくたくさん鳴くようになった。呼んだり、声をかけたりすると、悲しそうな声が少し和らいで、少しの間黙っていた。抱っこすると、しばらく静かになる。ピアノを弾く時、うるさいと気が散るので、近くにストーブを置いてそこに座らせておいた。そうすると、15分くらいはじっと静かにしていた。

 

 

 

亡くなる前日、家に帰ると、いつもしいが待っているドアの奥に影がなく、いつも猫の鳴き声がしている家はひっそりと静かだった。名前を呼んでも出てこない。そういう時もあるのだろうと、しばらく置いておくことにした。

数時間後、名前を呼ぶと、しいはカーテンのうしろからヨロヨロと歩きながら出てきた。小さく鳴いたが力がない。これはヤバい、と思いとりあえず上がりたがっていた椅子に寝かせる。いつもは横に倒すとすぐ起き上がってスタスタ歩くのだが、寝かせるとぐったりとしている。

 

 

その晩はリビングにマットと寝袋を準備して寝た。夜中に何度か目が覚めて、しいの腹が動いている事を確認した。途中、小脇に移動してきたので、一緒に寝た。一緒に寝たのはものすごく久しぶりだった。朝起きたら、あらかじめ敷いていたバスタオルの上に戻って、かろうじて呼吸をしていた。

 

 

次の日は幸いにして休日だった。事前に連絡していた家族も帰ってきており、各々用事を済ませたりしながら猫の様子を見ていた。

夜10時ごろ、風呂に入っている間に「そろそろかもしれない」と家族に呼ばれた。

呼ばれて10分経たないくらいのあいだに、しいの呼吸はゆっくりとしてきて、少し苦しそうな眉間のしわが消え、最後の息を吐いたのを見た。

脈が取れなくなって、ああ、入れ物だけになった、中身がどこかへいったなぁ、と思った。

 

 

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飼っている動物を、実際その時に見送ることは難しい。偶然なのかもしれないけど、見送ることができてよかった。

化けて出てきてくれないかと思っているけど、大きく化けすぎると怖いので、適度な化け加減で出てきてほしい、と思っています。

 

 

うちに来てよかったんかな、愛されたけれども、これは正解だったでしょうか、もっとかまってやればよかった、など少しの間気持ちはぐるぐるした。今もちょっとぐるぐるしているけれども。

 

 

入れ物と魂、という発想が生まれたのは、きっとそう考えた人が苦しかったからなんだな、と思った。ただ消えるのだという風に受け入れるのは、頭はともかく、身体には、難しいなと思った。

 

 

ペットって何なんでしょうね。エゴでもなんでもいいんで、できれば、どこかにいて、またかまってもらって、愛されていてほしいなと思います。

うちの猫の話、今すぐ出てくるものだけでも書きたいと思ったので書きました。

これでいったん、おわり。

しいちゃんにかまってくれたみなさま、ありがとうございました。

半身ともいえる日記について

はてなダイアリーのサービスが終了する。

 

http://d.hatena.ne.jp/hatenadiary/20190129/1548687783

はてな公式のお知らせ)

 

 

新しい記事の投稿は1/28までだったので、実質的にはサービスが終了したようなもので、これから私は自分の日記をはてなブログへ移行しなければならない。

 

 

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実は、12年間、日記を書いている。

毎日ではない。1か月に3日しか書かなかった時もある。

内容も、学生時代は起きた出来事と心象などを事細かに書いていたが、最近は休みの日にあった面白い出来事をメモするような気持ちで書いていた。

 

 

例えばこれまでの人生、正確に思い出せる”ある一日”はどれだけあるだろうか。

私は、自分が書いたことを忘れない、と思っている節がある。絵なんかは描いてる時のことをとても細かく覚えている。ここでこう筆を置いた、この色を置こうといつ判断した、とか。文章もそうだ。

と、思っていた。

 

 

景色は曖昧になっていく。最近、そう思うようになった。

思い出せない記憶は、もう私のものではない、空白だ、とは思いたくない。摂取した栄養が肉体を作るように、体験が私を形作っていると信じたい。

ただ、書いた文章が、文章を読むその時々の私から離れていくのを感じる。なんとなく、それが寂しい。分かっていたものが、分からなくなるということなのだろうか。失われたとまでは感じないけれども、近しく親しい感覚が、遠いものになったような感覚は、どちらかといえば、やっぱり寂しい。

 

 

でも、私はちょっとトロいので、書かないと自分が思ってることが分からないまま次の日になったりする。そうしてそれを7回も続けると、忘れてしまう。

私には何もないけど、白紙を前にすれば文章が出てくる。それは時間を知覚し、空間を認識し、他者を体験したからだ。それが存在の証明だと感じていたし、今でもそう感じている。

だからやっぱり日記を書く。私に必要なので、書く。

一文字一文字に感覚を集約させると、まるでその日のわたしというものに輪郭を与えたような気持ちになる。

かたちにしなければ、霧散してしまうような気になる。ジャンキーかな?

 

 

結論が、出ないまま書きはじめてしまった!

はてなダイアリー、ありがとうございます。

はてなブログに移行しても、日記は続けたいと思います。宜しくお願いします(誰にともなく。)

 

 

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インディー・かつ・R・P・G

最近思ったことを言葉にして出す練習をします。

ロールプレイングとは人間の限界を体感する事であり、人間への愛であると思った話です。

*初手から話が色々飛びます

 

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私は墓場を歩く老婆になった事がない。
私は20代の人間で、そこまで歳をとった事がない。でも、墓場を歩く老婆になった状況を少しだけ想像できると思う。

2018/12/7、新宿ネイキッドロフトで行われた「なんてことなの 生ゲーム会2」で、ソーシキ博士の「体験させられる」という言葉を聞いて、墓場を歩く老婆になるアプリの事を思い出した。

 

 

www.famitsu.com

 

いきなり他の記事を埋め込み始めたけど、今回はこのアプリの紹介ではないからこれで良いことにする。

The Graveyard.というアプリは、老婆になって、墓場を歩くゲームです。

(多分今はダウンロードできないんじゃないかな)

 


このアプリには何回か触れた。1回目は面白半分で触って5分でアンインストールした。2回目は10分くらい触って、しばらくアプリを消さなかった。

正直どれくらい真剣に遊んだかもよく覚えていない。それでも強く印象に残っているのは、ゲームというものに現実世界の制約からの解放を求めていた自分と、不自由さというものを体験させてくるゲームという存在が強くぶつかった衝撃がそこにあったからだ。

 

今回ゲーム会に行って、他人の世界を体験しにいくというのは他人の不自由さや制約を体験することに等しく、そんな他人の世界に飛び込みにいくのはもはや一種の人類愛のかたちなのではないかと思った。

大人数でインディーゲームを見て、そう思った。

 

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インディーゲームはかなり色々な面でメジャーではない。

完成度が低い、テンポが悪い、それでも作品としてダウンロードできるくらいにはパッケージ化されているのだが。

メジャーというのは、その集団の中でトップクラスに共有しやすいものを言う。ある集団の中の最大公約数。その数ができるだけ大きくとれるものが、その集団でメジャーなものだ。

ほぼ必ずマイナーになるものがインディーゲームといっても構わないと思う。作者と体験者の1対1の試合になるのが、ゲームにおける質の良さの指標で、その体験は誰とも共有できない、必ずマイナーなものになる。

メジャーではない、マイナーな体験に特化しがちのが、インディーゲームだと思う。

 

 

いや本当、インディーゲームは、マジで、マイナーだと思った。マイナーさに関心と理解がある層が集まっても、なおマイナー。それは、体験の質がそもそもマイナー向けだからだ。インディーゲームの真の面白さは、共有できなさにあると思う。

もちろん、共有できるマイナーさというのもあるし、それがその場では口当たりの良いマイナーさとなりその場のメジャーになる。でもそれは結果としてはメジャーなのだ。

インディーゲームには、誰とも共有できずに抱えるしかないかもしれない面白さというものがあるのだと私は思う。

 

なぜ、インディーゲームを愛する人は、他人の世界に自分を明け渡しに行くのか?なぜ、他人の世界を体感しようとするのか?

 

 

ここからあとに書くものはあんままとめてないです。矛盾ご指摘大歓迎。

 

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00年代、flash職人が一世を風靡した時代。ぴろぴとという人が、とても妖しいflashをHPで公開しており、当時中学生だった私は引かれたばかりの自宅のADSLを使い、アングラな動画を時たま見に行っていた。この人の作る作品には、フランス人形や、蟻がやたらたくさん出てきたりする。雰囲気が怖いし、殆どの人がホラーに分類するであろうビジュアル。トラウマ系というやつ。
私はそこまで深くflashを掘っていたわけではない。でも、個人ホームページ、flashテキストサイトには、魔力に似た魅力を感じていた。多分それは、他人のディープな世界に飲み込まれる機会だったからだと思う。

 

 

自らドアを叩いてダウンロードだのインストールだの起動だのして「体験しにいく」はずなのに「させられている」と感じる強さがゲームにある。ソーシキ博士が言った「体験させられる」ってそういうことなんではないかと思う。その人の世界観に拘束されにいくようなものといってもよい。

これは美術館、映画館、演劇、演奏会、といったものに付属する属性ではある。
ただ、見ること、聞くこと、世界にアクションすること、世界の反応が返ってくること、眼に映る視界やアクションの限界にさえもその人の世界を感じること。これらのことは、ロールプレイングゲームの根幹をなす感覚で、他にはあまり見られない要素だと思う。

 

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誰もが誰かに成り代る事は出来ない。しかし、それを試す事ができるのがロールプレイングだ。
ゲームの特殊性が、ロールプレイングでは存分に発揮される。
私たちは誰も、有名なストーリーを持ち認知度があるキャラクターではない。路上で人を殴る大会に参加していない。
アメリカに生まれた超能力少年でもなければ、悪魔を倒しまくるような魔女でもない。
でも、操作するという参加の仕方は、私と他者を融合させていく。
その世界には感触がある。

 

世界の感触とは、世界と自分の限界が起こす摩擦であると思う。

 

ゲームには、多少怖くても続けてしまう魔力がある。少なくとも私には、自分を動かして世界の輪郭を確かめ、確証を得たいという欲望がある。

花壇を作ってみたい。目の前の人をいきなり殴ってみたい。恐竜を飼ってみたい。泥棒してみたい。好きな人を大事にしてみたい。そういった雑多な欲望に応え、感じたことのない摩擦を感じさせる。

良くできたゲームの体験は、現実世界を生きる時に、「あ、これあのゲームでやった」進研ゼミ的性格を帯びる事さえある。

 

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人間の世界を体験しにいく、誰かの感覚に身を任せる、世界の裏側の人間の気持ちを体感してみる、世界が自分に及ぼす影響を受け止めてみる、その勇気というのは、まごう事なき一つの優しさであり、人間そのものへの愛に近い。

新しい世界の感覚に身を任せる時、感覚の語彙が広がっていくのを感じる。


インディーゲーム周辺の愛のかたちは、自身の発露と、受容の姿勢に現れている。

 

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たまに、「私は何をロールプレイしているのか」と思うゲームもある。後から「そういう事だったのか」と思わせる感じ。(Steamで配信されている『homesick』などがそれにあたる)
自分に何が起きているのか、自分の輪郭があやふやな時、行動を世界に反響させて自分の輪郭を知る。自分の輪郭を知るには他者、世界が必要だ。

 

;homesick、ジャンルとしてはホラーゲームで、私はホラーゲームがとても苦手だ。舞台になっている廃墟は好きなので廃墟ゲームとして遊んでいたが、「あ、これ多分かなり怖い展開になるやつだ」と思って最後の最後は配信で結果を見届けた。(それは正解だった。)この記事と矛盾する内容だが許してくださいな、人間には許容できる怖さというものがあらかじめ設定されているのだ。あるいは受け止める勇気が足りなかったのかもしれないけれども。

 

 

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ゲームには制約がある。ハード・ソフトウェアの技術革新、自動生成技術、AIにより限界は常に広げられつつあるが、人が作るものである以上、人が受け取るものである以上、つまり人が関わるものである以上、限界がある。その限界は人の認識が産む限界であるが故に、もはや現実世界と同じように存在する。
制約、限界というのは世界そのものであり、反響する壁である。壁には、他者が作るものも、質量が作るものも、社会が作るものも、体感する人間が作るものも、 ある。その中で、さまざまな手法を持って限界、世界の反響を体験させるのがロールプレイングだと私は思う。

 

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現実世界でも、仮想世界でも、制約というのは、ほぼゲームのルールといって差し支えない。

人格や限界という制約はそのままルールとなり、世界観となり、ある時間だけ人を呑み込む。

現実世界と仮想世界は、お互いにルールを改変することを許し、相互に拡張しあっていく。

 

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世界は自己を反響し、自己は世界を反響する。それを感触させるのがundertaleだった。
(そのような世界の在り方を体験させるという点で、undertaleはまごう事なき芸術だと思う。)

 

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undertaleについて私は何を書けばいいのか未だに分からないため今回は割愛する。

TobyFoxにファンレターを書くつもりでいるのだが、その時私は「undertaleが私を変えた事について」書くのだと思う。

 

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さて、私が婆さんになり墓場を歩くとき、「あ、これあのゲームでやった」と思うだろうか。

 

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個人が開発した、プレイし始めて20秒で吐き捨てたくなるような、そもそもがプログラムで固めた吐瀉物のようなクソゲーでも、クリックすれば何かしらの動作が起きる。最低限のコミュニケーションの窓口だけはほぼ必ず用意されているところに、表現としてのインディーゲームが持つ希望を感じる。

インディーゲームには、世界を明け渡すものと世界を明け渡されるものの関係があり、面白いなと思う。

 

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一時期アートアニメーションを映画館で観るのにハマっていた。吉祥寺のシアターが閉まり、私も引っ越しをしてからアートアニメーションを観る機会がほぼ無くなった。

やっぱり世界観に呑まれるあの感じが好きだったんだと思う。

 

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まだモヤついてるけど思ったことを出す練習としてはこのあたりがいいところではないか。

ということでおわりー。

オートキャンプする時に使う道具のリスト

最近キャンプにちょくちょく行くので、キャンプするときに必要な、またはあるとよいなと思った道具を(主に自分用に)書き出します。

1泊のオートキャンプ用。

このリストの火に関係する道具をバーナー1つの基準で考えるとだいたい山用にもなるかと思います。

 

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必須

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・テント

 (+α グランドシート、テントマット)

 

・寝袋

 

・マット

 (+α 耳栓、アイマスク)

 

・最低気温でも暖かく眠れる服

 

・着替え、身だしなみ用品

 

・食材、皿、割り箸

 

・食べ物に火を通す道具何がしか

 (グリル・炭・着火剤またはトーチバーナー、火ばさみ)

 (カセットコンロと鍋、またはフライパン)

 (バーナー)

 

・マグカップ

 (保温できるものが便利)

 

・ランタン

 (LED・ガス等々種類別に複数あってもよい)

 

・ホッカイロ

 (10月~4月は持っておく。冬場は特に。)

 

・食べたいもの

 (その食事の中心になる食べ物を1つ作るととても楽しい)

 

・虫よけや虫刺されの薬

 (山の場合はポイズンリムーバーも検討)

 

 

 

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リビング・明り(かなり必須)

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ロースタイルかハイスタイルか決めようね

 

・テーブル

 

・チェア

 

・ヘッドランプ

 (トイレに行くとき便利・電球色にできるものがおすすめ)

 

・レジャーシート

 (とても便利)

 

・50~70Lのボストンバッグ

 (夜に車へ一気に荷物をしまう時に便利)

 

 

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おすすめキッチン道具

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・キッチンペーパー

 

・ウェットティッシュ

 (お徳用のものをジップロック袋に入れると省スペース)

 

・10徳ナイフ

 (焚き火の始末には鋸つきが便利)

 

・コッヘルやクッカー

 

・バーナー

 

・水タンク

 (ビニール製の折りたためるものが便利)

 

・まな板

 (牛乳パックが特に肉を切るのに便利)

 

・洗剤

 (小さいボトルに入れるとよい)

 

スキレットとたわし

 (焚き火で調理する場合には鉄鍋か焼き網が必須)

 

ジップロックな袋

 →サイズ別に5枚くらいずつ持っておくと、夜に残った食べ物や洗濯物、洗い物を入れることができてとても便利

 

・食品用トング

 

・調味料

 (塩、胡椒、オリーブオイルやバター等の油)

 

ホットサンドメーカーと食パン

 (→朝に前日の余り物でホットサンドを作って食べる。残らなかった時用にチューブ状のコーンマヨ等を持っておくと最高の保険になる)

 

・BBQ用の分厚いアルミホイル

 (100均にもある。網があればギリギリ鉄板代わりとして使える)

 

・保冷バッグ

 (2日目に食品を持ちこせる確率が上がる)

 

 

 

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荷物スペースが許せば入れよう

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・焚き火台と火ばさみと軍手とうちわ

 (可能ならば汚れても良い革手袋)

 

・ランタンスタンド

 (真上から照らせるのは夜に料理をするときにありがたい)

 

 

・火消し壷

 (火起こし器がついているものがとても便利。3分で炭に火が点くし、炭の持ち帰りを心配しなくて済む。たまに、炭持ち帰りのキャンプ場があるらしい。)

 

・ハンモック

 (良い)

 

・燻製機

 (慣れたら段ボールで自作してもよい)

 

・雨具

 (わりと雨は降る、傘差しながらの撤収はきついので)

 

 

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当日買うのがおすすめ

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・食材

 

・薪(重いし場所とる)

 

 

 

 

 

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また書き足すかも。

紙を見る

【東京】

 

・見本帖本店

見本帖本店・各店|紙を選ぶ|竹尾 TAKEO

神田・銀座・青山・淀屋橋

福岡にもあるぽい

 

 

・山田商会

八重洲

 

 

小津和紙博物舗

日本橋

 

 

・紙舗直

文京区白山

 

 

【京都】

・森田和紙

 

 

・紙司柿本

 

 

【大阪】

・ペーパーボイス

平和紙業

 

 

・山本紙業

東京の紙イベントに出展していた。

 

 

【福岡】

・ペーパーイン

 

 

・河原田和洋紙店・ペーパースタジアム

 

 

 

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【情報】

 

 

紙のブログ (moriichi-net.co.jp)

 

 

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【雑記】

 

180628 追加。2000年ごろの情報で、HPとか確認してない。ここにない新しい店もある。

 

231205 追加。ブログ情報。

引きだされたい

良いラップを聴いていると、頭の中が言葉だけになる瞬間がくる。そういうとき、言葉の背景に、その言葉に関わる私の記憶の全てが瞬時に再生されるような感じがする。あらゆる時間の記憶が、多重撮影されたような色彩で、言葉映写されては新しい瞬間に押し出され、焼かれて2度と戻らないフィルムのように流れていく。聴くたびに、何度でも、忘れながら、思い出しながら。

 

 

それに似た感覚を引き出す体験が好きだな、と思った。私は忘れていなかった、私には忘れていないものがある、と思えるような体験が。無意識に過ごしていた時間が、存在した過去として私の身の中に立ち上がってくるようなもの。その記憶は楽しい記憶だけではないし、どうしてそれを覚えているのか分からないようなものも多い。けれども、言葉の中に私を再生し続ける間は、得も言われぬ安心感がある。それはまるで、「私は居ます」とでもいうような感覚だ。

 

 

 

MAKKENZの『ワニカミ』を聴いてそう思った。今itunesの再生回数を見たら99回になっていた。車に積みっぱなしのipodでも何十回か聴いているので、多分もっと聴いていると思う。

ラップを聴くことに限らず、絵を描くこともそうだなと思った。体験を思い出す鍵を自己生産しているようだ。不思議だと思う。鍵穴を手でまさぐって、その手触りを推理して鍵を作り出すようだ。鍵で開けてどうしたい、とかは特にない。ただ、開いたな、と思えた瞬間には、手元には何かが残っている。それはどこかから見ると、面白いものであることが多い。

 

 

その印象を生みだす根幹は言葉なんだけども。言葉といえば、本は好きだけど、どうしてもゲシュタルトの処理に1割くらい意識を持っていかれる感じがする。気を抜くと、なぜ人は線を読み場面を想像できるのかとかが気になってきてしまう。自分は視界に存在の説得力を感じやすいみたいなので、音声の方が集中できるのかもしれないと思う。だからか、好きなラップはすごく好きだな。

 

 

私は、私が引き出される体験を好むなぁと思った。もの、場所、人など。書いてる間にそれだけ分かれば今回は充分でした。今日はここまで。

 

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反応する私について。

;引き出される、というのは主体の意思が薄弱に見える。安易だけど今思いついた例えとしては、「美術館に行く」ということを「引き出されに行く」ようなものだと思う。そこには選択がある。趣味だからね。生活や仕事には「何に引き出されるか」選択肢がない場合があり、それが課題だ。否応なく引き出されてしまう。付け焼刃が役に立たず困ることが多い。

;;他者ありきの私みたいなことはずっと考えている。私は生きている筒なのだと思う。

;;;良く引き出されたい。そういうひとをずっと探している気がする。

;;;;こういう確かな感覚を誰に賛同されなくても(あるいはされても)保ち続けられる状態でいたい。

創作とその時の焦点について

今日こんなツイートを見た。

 

 

 

 

京極夏彦の文章の引用を引用している。

この本は読んでいない。こういう場合、そのまま話をし続けるとネットの誰かから怒られるのがここのところの世の常だ。

まぁでも進める、思いついた事は少しだけだし。

 

 

体験について「何か」が「あのあたり」にある、と気に留めるのは創作の原点だと思える。

田舎の田園風景の写真を撮る時に、電柱のシルエットを生かしがちなこと。絵を描くときに、ある個所を何らかの手法で強調すること。歌詞をつける時に、ある瞬間の感情を思い出すこと。人と接した時や新しい体験をした時に得た、初めての感覚に言葉を与えること。

そういう時々を思い返すと、「あのあたりに何かがある」、そういうアタリをつけて形を与えている人々がいるのではないかと思える。

そして、その行為こそが思考というもののような気がする。世界の輪郭や、実態や質感を感覚として得て、新しい何かとして出力する人々のこと。

「あのあたり」「何か」というその、引っかかり、不和、心地よさ、激しさ、その他もろもろの、発見をしたレンズ、つまり人間、が世界に存在しているだろうと思えること。

特にネットで音楽を探すと思う。創作におけるインディーズな活動というのは星の数ほどあり、そこには自分に即せるかたちのリアリティがどこかにあるという確信がある。これは音楽に限った話ではない。新しく、馴染みのよい世界への視線が存在するだろうと思えることは希望に似ている。

 

今日はそれだけなんですけれども。そういう人が多分いるなって思いました。そう思えるのは、私にはとても嬉しい事です。