プレタ用

@pure_taa

インディー・かつ・R・P・G

最近思ったことを言葉にして出す練習をします。

ロールプレイングとは人間の限界を体感する事であり、人間への愛であると思った話です。

*初手から話が色々飛びます

 

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私は墓場を歩く老婆になった事がない。
私は20代の人間で、そこまで歳をとった事がない。でも、墓場を歩く老婆になった状況を少しだけ想像できると思う。

2018/12/7、新宿ネイキッドロフトで行われた「なんてことなの 生ゲーム会2」で、ソーシキ博士の「体験させられる」という言葉を聞いて、墓場を歩く老婆になるアプリの事を思い出した。

 

 

www.famitsu.com

 

いきなり他の記事を埋め込み始めたけど、今回はこのアプリの紹介ではないからこれで良いことにする。

The Graveyard.というアプリは、老婆になって、墓場を歩くゲームです。

(多分今はダウンロードできないんじゃないかな)

 


このアプリには何回か触れた。1回目は面白半分で触って5分でアンインストールした。2回目は10分くらい触って、しばらくアプリを消さなかった。

正直どれくらい真剣に遊んだかもよく覚えていない。それでも強く印象に残っているのは、ゲームというものに現実世界の制約からの解放を求めていた自分と、不自由さというものを体験させてくるゲームという存在が強くぶつかった衝撃がそこにあったからだ。

 

今回ゲーム会に行って、他人の世界を体験しにいくというのは他人の不自由さや制約を体験することに等しく、そんな他人の世界に飛び込みにいくのはもはや一種の人類愛のかたちなのではないかと思った。

大人数でインディーゲームを見て、そう思った。

 

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インディーゲームはかなり色々な面でメジャーではない。

完成度が低い、テンポが悪い、それでも作品としてダウンロードできるくらいにはパッケージ化されているのだが。

メジャーというのは、その集団の中でトップクラスに共有しやすいものを言う。ある集団の中の最大公約数。その数ができるだけ大きくとれるものが、その集団でメジャーなものだ。

ほぼ必ずマイナーになるものがインディーゲームといっても構わないと思う。作者と体験者の1対1の試合になるのが、ゲームにおける質の良さの指標で、その体験は誰とも共有できない、必ずマイナーなものになる。

メジャーではない、マイナーな体験に特化しがちのが、インディーゲームだと思う。

 

 

いや本当、インディーゲームは、マジで、マイナーだと思った。マイナーさに関心と理解がある層が集まっても、なおマイナー。それは、体験の質がそもそもマイナー向けだからだ。インディーゲームの真の面白さは、共有できなさにあると思う。

もちろん、共有できるマイナーさというのもあるし、それがその場では口当たりの良いマイナーさとなりその場のメジャーになる。でもそれは結果としてはメジャーなのだ。

インディーゲームには、誰とも共有できずに抱えるしかないかもしれない面白さというものがあるのだと私は思う。

 

なぜ、インディーゲームを愛する人は、他人の世界に自分を明け渡しに行くのか?なぜ、他人の世界を体感しようとするのか?

 

 

ここからあとに書くものはあんままとめてないです。矛盾ご指摘大歓迎。

 

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00年代、flash職人が一世を風靡した時代。ぴろぴとという人が、とても妖しいflashをHPで公開しており、当時中学生だった私は引かれたばかりの自宅のADSLを使い、アングラな動画を時たま見に行っていた。この人の作る作品には、フランス人形や、蟻がやたらたくさん出てきたりする。雰囲気が怖いし、殆どの人がホラーに分類するであろうビジュアル。トラウマ系というやつ。
私はそこまで深くflashを掘っていたわけではない。でも、個人ホームページ、flashテキストサイトには、魔力に似た魅力を感じていた。多分それは、他人のディープな世界に飲み込まれる機会だったからだと思う。

 

 

自らドアを叩いてダウンロードだのインストールだの起動だのして「体験しにいく」はずなのに「させられている」と感じる強さがゲームにある。ソーシキ博士が言った「体験させられる」ってそういうことなんではないかと思う。その人の世界観に拘束されにいくようなものといってもよい。

これは美術館、映画館、演劇、演奏会、といったものに付属する属性ではある。
ただ、見ること、聞くこと、世界にアクションすること、世界の反応が返ってくること、眼に映る視界やアクションの限界にさえもその人の世界を感じること。これらのことは、ロールプレイングゲームの根幹をなす感覚で、他にはあまり見られない要素だと思う。

 

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誰もが誰かに成り代る事は出来ない。しかし、それを試す事ができるのがロールプレイングだ。
ゲームの特殊性が、ロールプレイングでは存分に発揮される。
私たちは誰も、有名なストーリーを持ち認知度があるキャラクターではない。路上で人を殴る大会に参加していない。
アメリカに生まれた超能力少年でもなければ、悪魔を倒しまくるような魔女でもない。
でも、操作するという参加の仕方は、私と他者を融合させていく。
その世界には感触がある。

 

世界の感触とは、世界と自分の限界が起こす摩擦であると思う。

 

ゲームには、多少怖くても続けてしまう魔力がある。少なくとも私には、自分を動かして世界の輪郭を確かめ、確証を得たいという欲望がある。

花壇を作ってみたい。目の前の人をいきなり殴ってみたい。恐竜を飼ってみたい。泥棒してみたい。好きな人を大事にしてみたい。そういった雑多な欲望に応え、感じたことのない摩擦を感じさせる。

良くできたゲームの体験は、現実世界を生きる時に、「あ、これあのゲームでやった」進研ゼミ的性格を帯びる事さえある。

 

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人間の世界を体験しにいく、誰かの感覚に身を任せる、世界の裏側の人間の気持ちを体感してみる、世界が自分に及ぼす影響を受け止めてみる、その勇気というのは、まごう事なき一つの優しさであり、人間そのものへの愛に近い。

新しい世界の感覚に身を任せる時、感覚の語彙が広がっていくのを感じる。


インディーゲーム周辺の愛のかたちは、自身の発露と、受容の姿勢に現れている。

 

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たまに、「私は何をロールプレイしているのか」と思うゲームもある。後から「そういう事だったのか」と思わせる感じ。(Steamで配信されている『homesick』などがそれにあたる)
自分に何が起きているのか、自分の輪郭があやふやな時、行動を世界に反響させて自分の輪郭を知る。自分の輪郭を知るには他者、世界が必要だ。

 

;homesick、ジャンルとしてはホラーゲームで、私はホラーゲームがとても苦手だ。舞台になっている廃墟は好きなので廃墟ゲームとして遊んでいたが、「あ、これ多分かなり怖い展開になるやつだ」と思って最後の最後は配信で結果を見届けた。(それは正解だった。)この記事と矛盾する内容だが許してくださいな、人間には許容できる怖さというものがあらかじめ設定されているのだ。あるいは受け止める勇気が足りなかったのかもしれないけれども。

 

 

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ゲームには制約がある。ハード・ソフトウェアの技術革新、自動生成技術、AIにより限界は常に広げられつつあるが、人が作るものである以上、人が受け取るものである以上、つまり人が関わるものである以上、限界がある。その限界は人の認識が産む限界であるが故に、もはや現実世界と同じように存在する。
制約、限界というのは世界そのものであり、反響する壁である。壁には、他者が作るものも、質量が作るものも、社会が作るものも、体感する人間が作るものも、 ある。その中で、さまざまな手法を持って限界、世界の反響を体験させるのがロールプレイングだと私は思う。

 

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現実世界でも、仮想世界でも、制約というのは、ほぼゲームのルールといって差し支えない。

人格や限界という制約はそのままルールとなり、世界観となり、ある時間だけ人を呑み込む。

現実世界と仮想世界は、お互いにルールを改変することを許し、相互に拡張しあっていく。

 

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世界は自己を反響し、自己は世界を反響する。それを感触させるのがundertaleだった。
(そのような世界の在り方を体験させるという点で、undertaleはまごう事なき芸術だと思う。)

 

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undertaleについて私は何を書けばいいのか未だに分からないため今回は割愛する。

TobyFoxにファンレターを書くつもりでいるのだが、その時私は「undertaleが私を変えた事について」書くのだと思う。

 

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さて、私が婆さんになり墓場を歩くとき、「あ、これあのゲームでやった」と思うだろうか。

 

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個人が開発した、プレイし始めて20秒で吐き捨てたくなるような、そもそもがプログラムで固めた吐瀉物のようなクソゲーでも、クリックすれば何かしらの動作が起きる。最低限のコミュニケーションの窓口だけはほぼ必ず用意されているところに、表現としてのインディーゲームが持つ希望を感じる。

インディーゲームには、世界を明け渡すものと世界を明け渡されるものの関係があり、面白いなと思う。

 

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一時期アートアニメーションを映画館で観るのにハマっていた。吉祥寺のシアターが閉まり、私も引っ越しをしてからアートアニメーションを観る機会がほぼ無くなった。

やっぱり世界観に呑まれるあの感じが好きだったんだと思う。

 

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まだモヤついてるけど思ったことを出す練習としてはこのあたりがいいところではないか。

ということでおわりー。